『Butterfly Effect』

 Cichlaです。前回はあっさりした紹介文でしたが,今回は私的な思い入れを含めて,濃厚風味でいかせてもらいたいと思います。

 というわけで今回紹介するのは,『Butterfly Effect』という映画です。
 本作品は,主人公が何度も時間を遡り,歴史を修正しようとする,「タイムトラベルもの」に連なる映画です。ハインラインの『夏への扉』を始めとして,これまでに無数の作品に取り入れられ,無数の傑作を生むのに貢献してきたアイデアですが,それらの中でも本作品はかなり上質の部類に入ると思います。

 本作を成功作に仕立て上げたアイデアが,タイトルにもなった「Butterfly Effect」。これは,「初期値の微少な差異が予測できないほど大規模な差異を生み出す」という現象を説明する際に用いられる用語です。『ジュラシック・パーク』で,「北京で蝶が羽ばたくとニューヨークに嵐が起こる」という比喩が用いられたのを憶えている方も多いと思います。
 この物語の主人公であるエヴァンはある日,「記憶と意識を持ったまま過去の自分にタイプリープする」という自分の特殊能力に気付きます。その能力によって過去に飛んだ彼は,少年時代に愛した少女,ケイリーの人生が自分のせいで悲惨なまでに狂わされていた事を知ります。後悔の念に囚われた彼は,彼女の人生を救うべく再びタイプリープを試み,見事成功させます。
 しかし,満足と共に現在に戻った彼を見舞ったのは,あまりに変りすぎた現在の形。彼の起こした,蝶のようにささやかな羽ばたきは,十数年を経た現在に嵐のような変化をもたらしていたのでした。変わり果てた世界の中でエヴァンは,彼の隣で幸せに微笑むケイリーを得ました――平凡な人生を送るはずだった親友の,狂わされた人生と共に。
 ここから,エヴァンの終わる事の無き挑戦が始まります。彼と,彼の愛する人の全てが,誰一人欠くことなく微笑んでいる,そんな未来を得るために。しかしながら,蝶の羽ばたきが未来にもたらす影響を,正確に予想する事は誰にもできません。一人の人生が救われれば,他の誰かの人生が狂わされる。彼は歴史を修正すべく,文字通り心身を削って,過去へ跳び続けます。幾多の悲劇を繰り返し,そして最後に,エヴァンはとある決断を下します――。

 この作品を観てまず感心させられるのは,構成の巧さです。めまぐるしく過去と現在が交錯する内容なのですが,前後の筋が判然とせずに困るという事が一度もありませんでした。これを二時間弱の映像作品として不足無く仕立て上げた手腕には敬服を払わざるを得ません。
 また,タイムトラベルものには「納得いくまで過去をやり直す」という禁じ手を不可能にするため,様々な制約が課せられます。本作品では,「繰り返されるタイムリープは心身に過大な負荷を与える」という設定を採用しているのですが,この事を,「現在に戻る度に鼻血の量が増えていく」という演出(最後の方はもう,コップ単位の大出血です)と,「タイプリープを繰り返したために精神病院に押し込められた父」という存在の二つで観客に納得させる事に成功しています。

 そしてもう一点。私がこの作品に感動した理由として,エヴァンの父という存在があります。
(以降,ネタバレを含みます)






 エヴァンの父はかつて,精神異常者として精神病院に収監されていました。そして,エヴァンが少年の時,見舞いに訪れた彼を突然絞殺しようとし,取り押さえた看守に殴られて「事故死」します。その時,彼は大きく目を見開き,いたいけな息子の首に手を掛けながら「お前を愛している!」と叫びましたが,それは確かに狂人の様を彷彿させるものでした。
 後に,母親の述懐やエヴァンの推測から,父親は息子同様にタイムリーパーであった事が判明します。心優しい人であった彼は,エヴァン同様,愛する人達の不幸に耐えきれず,自身の精神が壊れるまでタイムリープを繰り返したのだ……エヴァンはそう推察しました。彼は,最後の面会の場にタイムリープし,父にアドバイスを求めます。
 久しぶりに幼い息子と対面した父は,突如目つきと口調の変った息子を前にして,息子もまた,タイムリーパーの血を引き継いでしまった事,そして息子が,父と同じ愚行を繰り返そうとしている事に気付きます。
 彼は息子を必死で説得します。「何故,神様に祈れない?」と。その時点で,観客である私たちは,精神異常者と見なされていた父の目に,狂気の一欠片も存在しない事に気付かされます。彼は精神異常者などではなく,そう扱われることを悄然と受け入れた理性の人だったのです。
 それでも尚,父の説得に耳を傾けない息子を前にして,父は最後の手段に出ます。息子をこの手にかけ,悲しみの連鎖に終止符を打とうとしたのです。
 ここにおいて,「お前を愛している!」という父の言葉の意味が観客の中で逆転します。「お前を愛しているからこそ,お前を不幸にするであろう悲しみの連鎖を,今ここで止めなければならない」それは文字通りの,愛の言葉だったのです。私にとって,このシーンは第一の衝撃でした。

 そして。父の遺した言葉は,物語の終焉において,私にもう一つの衝撃を遺していきました。
「何故,神様に祈れない?」
 エヴァンは,狂気寸前の苦悩の後,自分を犠牲にして,彼に近しい人達が誰一人傷つけられる事のない現在を得る事に成功しました。彼の愛したケイリーはもはやエヴァンの事を憶えていませんが,彼はその結果を由としました。それはハッピーエンドとはとても言えませんが,それでもささやかなグッドエンドと言えるでしょう。
 しかし。ここにおいて,私たちは本作品のタイトルをもう一度思い起こさずにはいられません。
 『Butterfly Effect』
 はかない蝶の一羽ばたきは遠く離れた未来に嵐を呼び起こし得ますが,その事に蝶は気付く事はできません。エンドロールを眺めながら,私は一つの可能性に思いを至らせます。「なるほど,エヴァンのささやかな願いは達成されたのだろう。しかし,彼が過去に介入した事で,さらに悲惨な人生を送る羽目になった人がどこかにいるはずだ。彼は,その想像に心を押しつぶされる事無く,その後の人生を歩んでいけるのだろうか?」
 そこに至って,父の言葉が再び私の耳朶を打つのです。

「何故,神様に祈れない?」――と。
 
 少しでも興味を持たれた方は是非。